アーティストへの道。あと英語の勉強。The Avant-Garde Communication,Education,AND,,,,

2005-07
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人間形成

こっちは美術なんやけども、追記で書く。

追記-10:38am 8/15[sat]
3年ぶりの追記ってすごいなあ。
ていうか、言葉が若いなあ。
なんか、鼻息あらい感じがする。それでは、追記します。


今は大きい結論とかはそこまで求めていない。
ある程度の義務とある程度の権利がある限り、統一性も図れないからだ。
答えは意外とシンプルなのかもしれない。
「自分が納得行くまで追求するしかない」。
しかし、そこにも個体差が出て行く。
俺はその個体差のwhyを調べたり、研究してるから、答えが出るまでに時間がかかるのだ。
それまでは、どうしても途上継続な話しになってしまう。
とても悔しい論議だ。
じゃあ、もっとフラットに考えていこう。
俺は絵が好きだった、音楽が好きだった。それは本能だ。
放送大学の授業で心理学があって、ちょっと写メったんですが、
20080815113627

----人格全体に対する遺伝と環境の影響----
遺伝ー40%
非共有環境ー35%
共有ー5%
誤差ー20%

というのがありました。色々調べた結果なんでしょうが、まあ40%は
両親の分身と言ってもいいでしょう。面白い結果です。
より深く証明する為に、双子(一卵性双生児)の実験というのもありました。
一卵性双生児の遺伝子優劣は同じです。その二人が異なる場所や環境で長い長い時間をかけて自立・生活をした場合、性格は全く違うものなのか!?というものです。
結果は、好きなものやクセなど、ほぼ一緒だったのである。
興味があるなら、自分で調べるか、俺にばしばし質問をしてくれい。
(オマケ心理学資料、)

だから、なんで絵を描き出したんだ!!!!!?っと考えても、40%の遺伝の中に答えがあるという風にも考えることもできるのである。実際、俺の親父は絵と音楽をやっていた。
誰かがサッカーや野球を始め出したとかは、遺伝はもちろんなのだが、環境もやはり関係していく。
例えば、優秀な野球コーチが中学の顧問だったらやる気出ませんか!!? 何度も甲子園とか出してたら、信頼できますよね!!? 少なからず、そういう細かい特定要素も遺伝子や、現在進行形の性格に影響して行くのだ。神経などの小さい単位の話しで。
この話しはとても長くなるので、俺に質問して下さい。

美術について書いていくと、
楽しく教えられる人とつまらなく教える人がいる。
それだけで、既に個体差が出てしまった。
しかし、それをどう捉えているというのにも個体差が出てしまっている。
だから、はっきり言うと基準など何処にも無いのである。
せいぜい、学校では多数決で食われていってしまうのである。

教育に個体差があるのに、統一性を求めているのだろうか?
教育に個体差があるのに、責任の定義や、とりようがあるだろうか?
まだ、俺も考えが甘いと思いますが、、、
いつも答えなど無いように感じて来ます。

考える人がいて、考えない人がいて、
ある程度の常識とルールで守られてしまっていると、
俺の立場だと白旗になってしまう。
別に権力が欲しい訳ではないが、
間違ってないと言える、確かな理由を持っていれば僕はその人を讃えたい。
ちょっと美術ありきの話しではなくなりました。
どうも恐れ入ります、、、、、、。。
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ドンビーシャイ

昨日の話の続きやけど、書きたいことが結構あるんで、英語と美術と分けて話すわ。まぁ、なす君が書いたこともかなり考えるべきことなので。つか、これは、もう、教育なんよ。日本の。適当じゃ終われんのよ。や、俺は何様だ。なんちゅうかね、これは人間と人間の問題に関わってくる。教育がどう在っていくのか。考えなきゃいけないと感じることなんよ。考えるべきこと。すまん、前置きがうだうだし過ぎてる。まず、英語からいきます。

昨日の話は、教科的な内容としては英語と社会。で、その中に教育の話が入り混じっていたんやけど。………

-----
[追記8/2,15:51]
やっぱりまとめるのが下手くそや。一つずつ書いていくわ。

・英語教育
日本語だけで生活しても生きていけるのに、ちゅうか日本だから、英語なんていらんよという考えを持つ人はおると思う。じゃ、中学で英語を学習するのはなんのためやと訊かれたら、教師はなんと答えるのでしょうか。「国際化のため」、「いろんな視野を持つため」、中には「みんなのため!」だとおっしゃる方もおるでしょう。それだと、生徒(でなくとも)はなんやそれということになる。生徒から言わすと、三年間で英語を使うか使わないかの終止符を握っている(と、俺は感じた)。先生の軽っぱしい言動で、生徒の英語の在り方・必要か否かの終止符を左右させる。使わないというのは、一番最初の考え(日本だからってやつ)に至るのではないかなと。他にも理由はあるが。いや、ここで生徒の中には「何故、英語を学習するのか」というのに答えをだすかもしれない。教師がその問いに答えを出すのではなくて、生徒自身が答えを出すことが一番よいパターンやないかな。その答えってのは「いろんな視…」というのもあるかもしれないけど、無理やりにでも何か、自分の趣味にでも関連性を結びつけたりだとか、まぁいろんな答えがあるんじゃないかな。で、そういう英語の在り方を考えさせてくれる英語教師・教育が望ましいと俺は感じる。特に中学の英語は大きい。影響が。初めて触れる類・教科。初めての外国語教育。生徒の期待、不安。

ここでなんちゅうの教師の岐路があるわけよ。英語を楽しく学べさせれるか。いや、英語が楽しむための新たなコミュニケーション方法であるということを。それなのに、文法ばかりで、自己表現をする機会が全く足りない。そうやって、英語に嫌悪感を覚えた結果、一つのピリオドが生まれちゃうわけやん。えいごなんてつまらんと。英語が学校にあるのは、国際化のためかはどうかは知らんよ。俺は教育委員会の者でもないし。ただ、国際化というのが、英語を学ぶ一つの理由になるならば、やっぱり、欲しいのは、欲しているのは、会話でしょ?実践力でしょ?自己表現じゃないのかよ。異なる文化圏を学んでいるんのだから、異なる文化の人と話せてこそ、そこで初めて、学校の英語教育が意味を持つのではないんかいな。いや、まずもう、英語の授業システムから見直したほうがいい、つか見直せ。先生が英語で喋って、生徒が後を追って、声がちっちゃいだのなんだの…っておい!発音も適当で、先生だけ立派なthinkを言っていてもだめじゃろおい!通じるわけないやろ、カタカナ英語で。結局は英語と人と話すためだろが。話すためでなくとも、応用は利くが、なんだよ!ペーパーテストのために文法をうだうだ言う必要はないだろ。もう、それはなんだ?大学とか高校とか自分が行きたい学校に英語の試験があるから、文法をやるのかよ。どうなんだよ、日本の英語ってのは。こんなデカイ口叩くんだから、「なら、教師の免許は取れますか?」と訊かれたら、「取れません」。現状の俺は批評しかできない理論野朗。でも、考えるきっかけにはなったんでしょうかね。俺の日記読んでらっしゃる人たちは。

・Don't be shy.
つか、日本人は謙虚さがふんだんに英語では表れていると感じる。それが、日本の美徳なのかも知れんけど、あくまでこれは英語。英語圏の考えで臨まなくてはいけない。だから、謙虚さ消極的さを捨てるのよ。いや、捨てろ。英語を話す方はよく言いますな。「恥ずかしがらないで」と。極論、そういうことやと思うんよ。これも俺の勝手な考えやけど。もっと、極論を言うと、ジェスチャーや単語さえ知ってれば、会話できるやん。「Where?」って、地図見せれば通じるやん。だから文法ははっきり言うと、いらん。ただ、質の濃い会話をするときに必要だな。だから、積極性さえあればいいんよね。外人なんかは表情が豊かだよな。もっと笑顔だわ。もっと笑顔にならなくっちゃ。

・リスニング
一番の考えるべきところの一つかな。日本人が英語の授業しても意味ないやん。ネイティブなんて、なんやねん!速いんだよ。ったりめーだ。その、なんちゅうの、文を繋げて、音を繋げて(リエゾーンではないと言われた、言い方知らん)て、発音も普段日本人やわからんて、もっとリスニングと実践力の教育カリキュラムはないのか。和製英語、カタカナ英語やない。ホンマのものを学習したい。まぁ、あの、英語番組はけっこうやっとるんで全部見とります。耳を鍛えるんだ。それもすべて、英語が必要だと感じるからやっとるんでしょうが、必要か必要じゃないかではなくて、楽しめてるか楽しめてないかということがちょっとキーじゃないかと。だから中学は大事や。そういう教育の一歩。どうですか、英語教師さん。これは英語どうこうではなくて、人間を教育する、心理育成、価値観を養う一歩だと俺は感じますよ。



----
読み返したら、ようわからんなw長い。

進路

教育関連の方お二人とお話をした。国旗のことから、昨今の教育現場から、教師の立場、生徒の立場など。最近、自分が食っていくための職業について考える。教師というのも考えにある。しかし、今は生徒、学生を教育しなくてはいけないという明確な目的がない。少し、ちょっとあるかもしれんが、それはまだ甘っちょろい考えなので、またお二人と討論ができればなと思う。

短距離・中距離・長距離

陸上やっとる人は知っとるんだろうけど、短距離走と長距離走の人の筋肉の付き方は全くもって違うんよな。つか、正反対。短距離は一瞬のスピードを出すために、筋肉を付け、腕や足の往復運動を速くして、タイムを出す。長距離は筋肉を付けると体重が増えて、長く走るのには負荷がかかるために腕や足を細くする。で、人が短距離か長距離向きかっちゅうのは、生まれつき決まるらしい。生まれつき、どちら向きかの筋肉で生まれるっちゅうことです。あ、中距離ってのは800M走とかやったっけな。長距離はフルマラソン。のはず。で、俺はどっち向きかと言うと、長距離向きです。感覚的にも長距離をかなり楽しいと感じています。短距離は……という感じですわ。そいで、最近は左足のケイコツの痛みも引いてきたので、走ったわけよ。3キロぐらい。やっぱ楽しいわ。楽しいと感じるとスピードも上がる。この調子で、走る距離を増やして、最終的にフルマラソンぐらいまでいけよというくだらん願望。でも、最近は短距離も楽しくなってきた。んで思うんやけど、やっぱ、体力を高める事に越したことはないのよ。絵を描いているとどうしても、じっとすることが多くなる。そうすると、体力が落ちて、夏とかは辛くなっちゃうんです。だから、熱中症にはならん程度に運動するんよね。夜走るのもええけど、昼間の暑さにも耐えれる体を作るには日中も運動せなアカンて。風邪とか引くと発熱するが、運動して発熱にも慣れていると、風邪とかの発熱時に体力がうんと落ちずに済むんよな。運動して、夏には負けんぞ。話変わるが、絵というものは、「静」である。絵は言葉を発さず、ただ、観る人の眼との対話。観る人が受け取って、絵は言葉を発する。観る人の考えや価値観によって、その絵は無限の意味を持つ。ただ、絵を鑑賞するときは「静」であっても、絵を創るときは「動」でも可能だ。「動」を「静」に閉じ込める。どう閉じ込めるか。俺はほとんど静の状態で絵を描くより、動によって絵を描くほうが楽しいようだ。いや、体を動かして絵を描きたいのだと、身が欲している。そういう俺の今の考え。それは、運動できるという副産物があるから、欲しているわけなのかな。いや、わからん。でも、運動してると、なんかこうムズムズするのよね。運動してないときに、そう感じる。しかし、それは単に(運動したいという)自己欲求の考えから生まれた絵になってしまう。でも、そこから生まれた美術、作品(あんまこの漢字好きやない)、創り生まれたもの、生きた衝動(や、抽象文になっとるわ。わけわからん)。や、別に運動したいという自己欲求というわけでもない。そういう、表現の仕方、表現の一種や。そういう、表現をするための過程に過ぎん。結果的にそれは、その表現によってできた、創った、新たなもの。新たなアート。新たな衝動。静か動うんぬんではなく、アートへの挑戦。自分への挑戦か。あ、頭がこんがらがるぞ。
マシュー・バーニーさんよ、あんたはやばいな。8月にあんたの創り生んだもんを観に行くわ。いや、この眼球に焼き付けるわ。それが、アートをやっていくうえで、やるべきことかな。なんか、今日は長話。

疲労蓄積

身を殺すか、休むか。…やっぱり、休みたい。

petrify

脱出できないかな。早く。この拘束間とやらに。頭が固まると言うか、考える時間がないから、記憶に留めているものしか頭にない。まずい。転換ができない、軌道修正なにがなんでもしてやるわ。

明日にでも新たな絵を載せれるかもしれん。

GIMP

フォトショップもなく、イラストレーターもなく、ジンプ(俺はギンプとは言わんな)はあって、ペイントもある。で、どちらを取ったかと言えば、ペイントで。そうして、いつからか描いてきた。で、とうとうと言うか、ジンプで描いた。もう、やりたいことができて、笑っちゃうほどに嬉しくって楽しくって。ホンマに。しかし、それはまだ、自己欲求の達成。そこから、どんな絵を描くか。人にどんな衝動を与えるか。そこが俺の見つけなくてはいけない底色というもの。それと、自分が描くために、触れるべき類を全て見てきたわけじゃない。まだ、触れてきてない類もある。だから、もう少し足を伸ばして、新世界を見て、また、新たな考えを生み出し、未だ見ぬ類に触れてみる。今まで触れてきた中じゃ、パステルが一番よかった。と言っても、その考えはまた変わるやろな。

「人に衝動を与える」と言っても、どないやねんと言う意見があった。このことを俺は定義すべきだろうか。曖昧な文はよろしくないな。とは言えども、定義する気はない。それは俺が描いて身を持って証明するものだけど、やっぱりというか人に衝動が与えられているかなんて、絵を観た相手が感じることやし、自分が与えているんだとか思っても、相手にプラスになってなきゃ、それは描いたことによる自己満足だけで終わる。ただ、そうなると、やはり絵の技術は高いほうがいい。わざと下げるという手もある。いや、下げなくちゃ表現できないこともある。技術は下がってなくとも、自分自身を縛って下げるという方法もある。いずれにせよ、今するべきことはスキルアップなのかな。それと、いろんな世界を見ることかな。頭が固まってくると、技術はあっても、固定観念に縛られた絵になるから、発想転換という意味でも、世界を見ることはええことだろう。行きたいところが結構ある。夏休み中に全て行ければいいけど。ただ、逆にそれも自分の固まった観念の中から生まれた答えだから、自分が思ってもいないところに行くのもいいかもしれない。結果的にそれは、都合のいいことをしているのかな。でも、世界を見ることに間違いはないと思う。自分の小ささもわかるやろ。

パソコンで描くということに今は抵抗はない。しかしあれだな。データとして絵が扱われちゃうのはちょっとアカンな。絵じゃなくなっているいるな。絵には見えるが、絵として認めてええのかな。特に、だれかが勝手に商業媒体として利用しているのが一番痛いな。それはもう、絵を鑑賞するものではなく、データとして金に利用できるものにしているのが痛いな。それは、載せる側のセキュリティ対策が必要だが、観る側にも問題があるやろ。だめだ、これは考えの整理をして、結論を出さないと。もう、ちょっと今は限界。グダグダしてきた。抽象文に入ってくる。また後々に書くか。

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