アーティストへの道。あと英語の勉強。The Avant-Garde Communication,Education,AND,,,,

2006-07
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ブラックサンデーブラックキャンデー




寄道街道まっしぐら

道草本日食べ放題

思い出収穫3年分

そんな日も許されていいだろう

ブラックサンデー ブラックサンデー

日曜日は晴れてくれないか

ブラックキャンデー ブラックキャンデー

甘ったれた一日をおくれ



反逆講習サボり気味

煩悩本日大セール

最近何だか優等生

その方が許されて行くのだろう

ブラックサンデー ブラックサンデー

日曜日は突風吹く模様

ブラックキャンデー ブラックキャンデー

甘ったれた匂いがするよ

間食は程々にしましょうね















------------
今日は東京に用があって彷徨っていた。
終電に間に合わなかった。
家へ帰れないときは、ホームレスをする。
といっても、大抵はホームレスをする前に
渋谷のツタヤ(閉店午前2時)でうろつき、
隣のスタバ(閉店午前3時半)でうろつき、
スクランブル交差点を渡り、
始発が出るまで、地下鉄に通じる階段で沈む。
ホームレスはダンボールで寝てる。
俺はよく曲と詞が浮かぶ。
最近は渋谷駅南口を少し歩いた所にある本屋(24時間営業)があるのを知ったので、
そこで時間をつぶす。インプット。インプット。
それでも嫌気がさしてきたら、
山手線に乗り新宿駅で降りて、
ホスト街にある漫画喫茶で沈む。
今日は漫画喫茶で更新しております。

そんな生活していいもんだろうか。
世間に許されているだろうか。
そんな事は気にしとらん。

俺は俺の人生を全うしているだけであります。
そこに生じる利害・損得は自分で負っている訳です。
文句は言わんで意見は言ってね。
-----------







晴れた夜には路上でエレキを潜めて

降った夜には個室でお絵かきしながら


朝を明かそう

朝を明かそう


そうやって欲張りな犬は

よく吠えるもんです

しかし欲張らなかった犬は

死んだ亡骸の後には

骨しか残っていません

そんな人生はまっぴらです

よく吠えて

上手に吠える

犬に成り

冷めた手のひらに

拍手を起こしてやろう
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「となりの平和」連載にあたり#1:Free Tempo




予定では前日水曜日に連載でしたが、見事に予定をぶち壊しました。

出版社ならびにその他関係者の皆様には、
多大な迷惑をお掛けした事を深くお詫び申し上げます。
というのは冗談ですが、

実際の漫画家には数人(数百人)のアシスタントさんがおりまして、
実際の漫画家には作者取材という休載がちゃんとありまして、
実際の漫画家には3週間分くらい先の漫画まで準備してあって
余裕を持って漫画を書いているわけでして、
実際の漫画家には、、、、、、、、、(省略




ジャンプのハンターハンターがあのタッチなのには理由があるからですか。
そのことで頭がいっぱいのどうもbcです。




そもそも僕がこの漫画を連載するキッカケを作ったのは、
「となりの平和」という詞を書いたことに由来する。
それ以外は空っぽで漫画の内容は未定。
ですが、漫画とはジャパンカルチャーでは有数なものなので、
いつか描いてみたいなぁと妄想に駆られるのであった。
週間で描いてみたいなぁと頭をぐるぐる回すのであった。

週間はあくまで目安にしています。
自分の都合上で出来ない場合等もあるかと思われるので、
フリーテンポで参りたいと思います。

どうぞご愛読頂けると嬉しいです。
感想を頂けると嬉しいです。(まだ表紙だけですが

ふがいないや

書く時間ないやいや

こんなんですんません

トランスペアレント アンブレラ

怖いものなんていない そうやって逃げていた

刃なんて持つ人がいなければ人格は宿らない そう思っていた

怖いものがあった 記憶の隅っこで覚えていた

疲れ知らずの機械に任せれば上手くいくと思っていた


透明の傘を僕は握って 涙は雨をごまかしていた

空いた穴を黒いハンカチで丁寧に拭いていた


いつからか僕は絵を描いていたんだ

こどものころはえんぴつにぎって じゆうちょうかかえて

そりゃもう時間を忘れて描いたもんだ

成長したらシャーペン握って ノートを開いて

そりゃもう時間が長くてふらついたもんだ

大人になったら鉛筆見捨てて 画面とお付き合い

そりゃもう時間は早くて働き盛りで


透明の傘を僕は無くして 流した汗は助けも実らず

冷やした頭は白いキャンバスに描く丁度いい気分だった


いつからか僕は絵を拒んでいたんだ

子供の頃と違って縛られながら じゆうを奪って

そりゃもう時間を見ながら描いたもんだ

成長したら道具を増やして 足跡残して

そりゃもう時間が欲しくて嘆いたもんだ

大人になったら絵筆を見捨てて ねずみとお友達

やっぱり時間が早くて働き盛りで


怖いものなんてない 事ある度にかわしていたんだ

今日やる事なんて容易く処理できる そう思っていた

怖いものがあった 確かに記憶の片隅で覚えていた はっきりと

明日に追われた夜は目を閉じれば済むと思っていた


夢を叶えた歌い手はまだ唄を歌っていた

夢の先を見てしまってもまだ唄を歌っていた

夢の山を登り始めた時から全ては始まった

頂を越えた歌い手はまだ唄を歌っていた

夢を叶えた歌い手は下降する準備をしていた

悲しいけれどそれは皆に与えられた山だから

悲しいけれど降りるスピードは変えられるから


段々と僕は泣かなくなったよ ヤワなことじゃ

段々と弱みを見せなくなったよ ちょっとのことじゃ

段々と一人で動けるようになったんだ 一人で立ってんだ

だけど 少し寂しいと思うようになったんだ 何故だか


赤い糸をひっぱって 白い目でうつむいて

青い鳥をうちぬいて 黄色い顔でほくそえんで

緑の髪をなびかせて 黒い太陽こんにちは


そんな気持ちを描きたかった そんな感情描いていたかった


いつからか僕は絵を好きでいたから

じゆうちょうひろげて わすれずせかいをうつしていたんだ

いつだっけ僕は絵が嫌いでいたから

てすとのうらに のこさずぐちをこぼしていたんだ

そうやって僕は紙を破ったところで

何も残っていなかった 空っぽだった


怖い者なんていない そんな自分が怖かった

じゆうちょうひろげて 誰よりも自分を映していたんだ

怖い者があった 描けない自分が怖かった

てすとのうらに 零した自分と向き合っていたんだ

素直になれなかった 忘れちゃいけなかった


とうめい傘を差すのを止めて

ずぶ濡れダンスのお供にしたのさ

ぼろけた傘は気付けば亡くなる

ずぶ塗れタンゴの絵具にしたのさ

あいあい傘は街角ゆらり

どしゃ降りスキップ描いてやろう

白紙に産まれしこどもたち

もう大丈夫

もう大丈夫さ

もう笑った絵もちゃんと描けるよ

誰にも邪魔されない

僕の気持ちのままに

僕の感情のままに

どしゃ降りステップで

たくさん夢を描いてやろう

谷を迎えるまでに

シヴァと化す

そもそも「アバンギャルド」というのはフランスの軍事用語であり、前衛部隊の意味であった。それが転じて、「何か(旧世代に属する芸術、保守的な権威、資本主義体制など、様々なもの)への攻撃の先頭に立つ」というような、政治的ニュアンスを含んだ言葉であり、明確な芸術運動が現れなくなった70年代以降急速に使われなくなった。というのはwikiに載っている言葉を引用したものですが、現代は様々なものが混沌し過ぎちゃいまして、何が先端的か前衛的かようわからん風になっちょるからです。アバンギャルドという言葉は死語と化したと思われるのも無理ないんです、それはもうわかっとるわい。

では(日本の)芸術(種に僕は美術)において先端、前衛的なものはもうないのか?という疑問が僕は頭をよぎる。それを確かめるべくして、今年の1/28-2/5に横浜で行われていた東京藝大の美術学部先端芸術表現科卒業制作展と同大大学院美術研究科修士課程先端芸術表現専攻修了制作展(長っ);通称「Project the Projectors 2006」を機会があって観に行った。しかし、それは学部や院の名前からも分かる通り、「先端」ではある(のかもしれない)が「前衛」ではない。攻撃態勢を持っているわけではなく、それぞれの表現の追求をしているだけである。その展示のパンフレット(辞書風)に先端の事が記されていた。引用したいと思う。

--(以下引用)--

先端【せんたん】
「先端芸術」という言葉は、それを用いる場に、必然的に、混沌と戸惑い、仮説と議論をもたらす。なぜなら、科学と技術の先端が、極端にいって、未来そのものであるのに対して、芸術には、前も後ろもないからである。だが、実体としての「先端芸術表現科」の実践は、単なる混沌と喧噪に集約されるものではない。そこには、複数の意志と力を集約する理念と組織化の原理がある。
i)われわれは手段(技術の習得)と目的(表現行為)が、教育の現場において、しばしば、転倒されてしまう傾向に対して、当初から批判的であった。基礎の習得、技法の洗練を否定しているのではなく、それらの必要性を認めたうえでなお、「いかに絵を描くか」より、「なぜ絵を描くか」という問いが大事なのだ、と考えたのである。

ii)われわれは、先端の目指すのは、再生可能、繰り返し可能なサイクルとしての「カリキュラム」の構築ではなく、不可逆な時間の流れの中にあって、二度とくり返さない「プロジェクト」の立ち上げであると考えてきた。その場限りの微細な変化を逃さず捉えるために、知性と感性を鍛えようとしてきた。

iii)われわれは、個の表現を核にしたコミュニティーの構築を試みた。資本による商品の交換、政治による利害の調整。伝統的共同体における恩恵と互酬、そのいずれとも異なるコミュニケーションの回路を開こうと努力した。もちろん、大学という組織において、<教える―学ぶ>という関係は否定しがたく存在する。しかし、われわれは、その中にあってもなお、表現の地平においては、人と人の出会い、経験と感性の交換がすべてなのだ、ということを自明の理としてやってきた。

iV)われわれは、芸術の囲い込み(=専門家)に対抗してきた。芸術は、誰もが参加でき、どこからでも、再定義が可能なものである。しかし、現実の芸術を取り囲む活動は、既存の社会における力関係を反映し、一定の場所に縛り付けられてきた。それに対して、われわれは、揺さぶりをかけ、意義申し立てを行い、芸術本来の開放性を回復させようとした。

V)われわれは、世界と人間の限りない謎(=予測不可能性)に対する探求を続けようと決意した。人類が歴史上積み重ねてきた数々の技術的発展(=予測可能性の拡大)を否定するのではなく、ただ、人間には、いつの時代にも、謎(予測不可能性)が必要なのだ、直感的に信じるがゆえに(高橋裕行・助手)

--(引用以上)--

この文を咀嚼してじっくり味わって考察して欲しい。
これは先端芸術においての(複数の意志と力を集約する)理念や(組織化する)原理ではあるが、とても興味深いものである。

何かにおいて特質的な能力を持っている場合、それを本能的に磨こうと努力する。特質的な能力が見つからない場合はそれを探そうと努力する(それを探そうと努力する行為自体が特質べき能力かもしれないが)。それで自分が食っていけるかいけないかは別として磨く。それを趣味として割り切って磨く人もいれば、どうやって食っていけるかと路線を変更して磨く。生きるというのは人間その他生物の原理だから。サバンナのチータが走る能力があるのに使わないわけがない。それは論理的には証明しずらい、生物根源原理であると僕は思う。

話を前衛に戻すが、では僕が定義したアバンギャルド・コミュニケーションとは何なのか。コミュニケーションにおいて前衛というのはこりゃまたおかしな話ですが、日常にそんなものありますでしょうか。普段の会話?携帯?パソコン通信?いやいや、そういうデジタルというものには確かに関係性はあるかもしれませんが、僕はそのテクノロジーによる内面の思想破壊に目を置いていまして。

誰かが日記を書いて、それに呼応して日記を書いて、誰かがコメントして、顔も知らぬ運命共同体がコメントをして、誰かがトラックバックをして、誰かが反応して、誰かは何かは呼応して。果てるまで永遠に呼応して。
世の中に本音をぶちまけるのは、ネット内になってきてしまった。ブログによって何かが繋がっているのだろうという、現代思想。

社会や政治という、目にはっきり映るものは大分平たくなっている。トゲになってはいないの。要するに平和なんです。大分。しかし、それに適応している人間の内面は深く尖って(きて)いると僕は考察してる。それを僕は今、攻撃的な姿勢でぶち壊そうとしているの。微々たる事でも。人には話したくない事も。

人間の内面は深く尖って(きて)いるという事例を挙げると、僕の知り合いに小6の子がいるんだけど、大分ネットも浸透していて、みんなHPをもっていたりする。書いている事はまぁ、小6なりのキャパシティだが、バトンが回ったり、日記があり、BBSがあり、りんくがあり。可愛いと思います。しかしですが、デジタルによる個性表現が糸を巻いていて、バトンで好きな教科や嫌いな教科など聞かれているが、それによって先入観が大幅に生まれている。「自分は数学が嫌い」というある程度の能力制御を行ってしまっているのだ。危険なのである。勉強する意義は「いつでも基礎能力に還る事が出来、普遍性で不通の生き方が送れる手段」だと僕は思っている。それを余暇的な個性表現で殺すのは "Too bad" だ。そこに客観性が無く個性表現をしているからだ。それを現代教育で修正出来るか否か。発展した科学に応じる模範教育が無いから、みんな困ってるんだ。

だから、みんな投げるの。もういいやって。段々思考が乱れて行くの。考える時間が増えたから。しかし、僕らよりもヤバイのはその下に生まれた子たち。

その内面思想等を破壊することに僕は意義を持っていて。こうやって、僕はブログを綴る。誰かから観たらあつかましい文章で、17の文章で、参考の文章ですが、呼んだというカルマがある時点で何かしら利害思考をもたらすわけです。そして、その(固定観念や無知などの;いやそれよりも大きい何かの)内面思想を破壊できていたならば、それはアバンギャルドなコミュニケーションやなぁと思うわけです。そんなものとっくに出来ているのかもしれない。どこにおいても。どっかのえらい教授の文が載っていて自分の現状のヒントになるんやったら、そりゃ読むだろうが、しかしそれはえらい教授のコミュニケーションであり「仕事」(+教育)である。知識を僕らに授けて頂いているだけ。それは普通なのである。それだけでは世の中は解決しない。

「破壊」から何が生まれるか?それは「創造」である。ヒンドゥー教の考え方を参考にしているが、破壊された思想を新たにかつ、より以前より完成的に創造(再構築)するのである。人々の思想を破壊する事は怖いことではない。ただ、その行為が利益をもたらさなくては僕が意義を持つことは無意味になる。誰も害なんか求めちゃいない。ただ、それは社会においても内面においても無常に浮き出てしまうもの。「益」と「害」は表裏一体なの。それは悲しきことでもあるが、人々を常に向上させる原動力でもある。

僕の考えるアバンギャルドとは、芸術においてたけるものでなくともいいと思っている。そもそも、そういう考えを再構築し、また創造して行くだけである。

それを意義のある表現にしていくだけです。
文での表現はここまで。
長文読んでくれて、ありがとうございます。

アバンギャルド・コミュニケーションによる結論

なんか沢山長文書いたんですが全部消えてしまって、がっくしきている どうもbcです。

最後に書いた詞を思い出しながら書きます。
----------





個性表現を許された社会に目をつぶり

遠回りな軌道を描いて僕らはすすむ

模範解答は示せない社会に芽を肥やし

空回りなレールを紡いで僕らはすすむ


君と交わした幾度の言葉

君がかわした幾度の事は

僕が綴った言葉の果てにも

僕の察する疑問の先にも

どこに居たって眠っちゃくれない どこに居たって隠れちゃくれない


このアバンギャルド・コミュニケーション

一体何人が解読してる 一体何人が理解している



あいつの目 こいつの目 あの人その人の目

そんな目は無視して ひた走る者に感動していた

生きる死ぬとか 意味や理由とか 余計な事考えまくったが 

そんなものは払って 突き進む人に感動していた



全ての先に僕がすること

ひたすら目標に向かって突き進むだけ

それ以外に何も残されちゃいない

滑稽で小さな人生











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プロミス プロミス

一生君の日記綴れや

僕は一生応えてやるよ

だから

僕は

行くから

進むから

科学者達は高いところへ避難している

宇宙の起源を解明する最終兵器「リニアコライダー」を獲得せよ!
人間によって宇宙は創られたのか?考えすぎか
この装置によって、膨張した宇宙はこの世界を飲み込むのか?
どちらにせよ温暖化は起きるので、陸が沈む前に科学者は避難しています。

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