アーティストへの道。あと英語の勉強。The Avant-Garde Communication,Education,AND,,,,

2017-10
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シヴァと化す

そもそも「アバンギャルド」というのはフランスの軍事用語であり、前衛部隊の意味であった。それが転じて、「何か(旧世代に属する芸術、保守的な権威、資本主義体制など、様々なもの)への攻撃の先頭に立つ」というような、政治的ニュアンスを含んだ言葉であり、明確な芸術運動が現れなくなった70年代以降急速に使われなくなった。というのはwikiに載っている言葉を引用したものですが、現代は様々なものが混沌し過ぎちゃいまして、何が先端的か前衛的かようわからん風になっちょるからです。アバンギャルドという言葉は死語と化したと思われるのも無理ないんです、それはもうわかっとるわい。

では(日本の)芸術(種に僕は美術)において先端、前衛的なものはもうないのか?という疑問が僕は頭をよぎる。それを確かめるべくして、今年の1/28-2/5に横浜で行われていた東京藝大の美術学部先端芸術表現科卒業制作展と同大大学院美術研究科修士課程先端芸術表現専攻修了制作展(長っ);通称「Project the Projectors 2006」を機会があって観に行った。しかし、それは学部や院の名前からも分かる通り、「先端」ではある(のかもしれない)が「前衛」ではない。攻撃態勢を持っているわけではなく、それぞれの表現の追求をしているだけである。その展示のパンフレット(辞書風)に先端の事が記されていた。引用したいと思う。

--(以下引用)--

先端【せんたん】
「先端芸術」という言葉は、それを用いる場に、必然的に、混沌と戸惑い、仮説と議論をもたらす。なぜなら、科学と技術の先端が、極端にいって、未来そのものであるのに対して、芸術には、前も後ろもないからである。だが、実体としての「先端芸術表現科」の実践は、単なる混沌と喧噪に集約されるものではない。そこには、複数の意志と力を集約する理念と組織化の原理がある。
i)われわれは手段(技術の習得)と目的(表現行為)が、教育の現場において、しばしば、転倒されてしまう傾向に対して、当初から批判的であった。基礎の習得、技法の洗練を否定しているのではなく、それらの必要性を認めたうえでなお、「いかに絵を描くか」より、「なぜ絵を描くか」という問いが大事なのだ、と考えたのである。

ii)われわれは、先端の目指すのは、再生可能、繰り返し可能なサイクルとしての「カリキュラム」の構築ではなく、不可逆な時間の流れの中にあって、二度とくり返さない「プロジェクト」の立ち上げであると考えてきた。その場限りの微細な変化を逃さず捉えるために、知性と感性を鍛えようとしてきた。

iii)われわれは、個の表現を核にしたコミュニティーの構築を試みた。資本による商品の交換、政治による利害の調整。伝統的共同体における恩恵と互酬、そのいずれとも異なるコミュニケーションの回路を開こうと努力した。もちろん、大学という組織において、<教える―学ぶ>という関係は否定しがたく存在する。しかし、われわれは、その中にあってもなお、表現の地平においては、人と人の出会い、経験と感性の交換がすべてなのだ、ということを自明の理としてやってきた。

iV)われわれは、芸術の囲い込み(=専門家)に対抗してきた。芸術は、誰もが参加でき、どこからでも、再定義が可能なものである。しかし、現実の芸術を取り囲む活動は、既存の社会における力関係を反映し、一定の場所に縛り付けられてきた。それに対して、われわれは、揺さぶりをかけ、意義申し立てを行い、芸術本来の開放性を回復させようとした。

V)われわれは、世界と人間の限りない謎(=予測不可能性)に対する探求を続けようと決意した。人類が歴史上積み重ねてきた数々の技術的発展(=予測可能性の拡大)を否定するのではなく、ただ、人間には、いつの時代にも、謎(予測不可能性)が必要なのだ、直感的に信じるがゆえに(高橋裕行・助手)

--(引用以上)--

この文を咀嚼してじっくり味わって考察して欲しい。
これは先端芸術においての(複数の意志と力を集約する)理念や(組織化する)原理ではあるが、とても興味深いものである。

何かにおいて特質的な能力を持っている場合、それを本能的に磨こうと努力する。特質的な能力が見つからない場合はそれを探そうと努力する(それを探そうと努力する行為自体が特質べき能力かもしれないが)。それで自分が食っていけるかいけないかは別として磨く。それを趣味として割り切って磨く人もいれば、どうやって食っていけるかと路線を変更して磨く。生きるというのは人間その他生物の原理だから。サバンナのチータが走る能力があるのに使わないわけがない。それは論理的には証明しずらい、生物根源原理であると僕は思う。

話を前衛に戻すが、では僕が定義したアバンギャルド・コミュニケーションとは何なのか。コミュニケーションにおいて前衛というのはこりゃまたおかしな話ですが、日常にそんなものありますでしょうか。普段の会話?携帯?パソコン通信?いやいや、そういうデジタルというものには確かに関係性はあるかもしれませんが、僕はそのテクノロジーによる内面の思想破壊に目を置いていまして。

誰かが日記を書いて、それに呼応して日記を書いて、誰かがコメントして、顔も知らぬ運命共同体がコメントをして、誰かがトラックバックをして、誰かが反応して、誰かは何かは呼応して。果てるまで永遠に呼応して。
世の中に本音をぶちまけるのは、ネット内になってきてしまった。ブログによって何かが繋がっているのだろうという、現代思想。

社会や政治という、目にはっきり映るものは大分平たくなっている。トゲになってはいないの。要するに平和なんです。大分。しかし、それに適応している人間の内面は深く尖って(きて)いると僕は考察してる。それを僕は今、攻撃的な姿勢でぶち壊そうとしているの。微々たる事でも。人には話したくない事も。

人間の内面は深く尖って(きて)いるという事例を挙げると、僕の知り合いに小6の子がいるんだけど、大分ネットも浸透していて、みんなHPをもっていたりする。書いている事はまぁ、小6なりのキャパシティだが、バトンが回ったり、日記があり、BBSがあり、りんくがあり。可愛いと思います。しかしですが、デジタルによる個性表現が糸を巻いていて、バトンで好きな教科や嫌いな教科など聞かれているが、それによって先入観が大幅に生まれている。「自分は数学が嫌い」というある程度の能力制御を行ってしまっているのだ。危険なのである。勉強する意義は「いつでも基礎能力に還る事が出来、普遍性で不通の生き方が送れる手段」だと僕は思っている。それを余暇的な個性表現で殺すのは "Too bad" だ。そこに客観性が無く個性表現をしているからだ。それを現代教育で修正出来るか否か。発展した科学に応じる模範教育が無いから、みんな困ってるんだ。

だから、みんな投げるの。もういいやって。段々思考が乱れて行くの。考える時間が増えたから。しかし、僕らよりもヤバイのはその下に生まれた子たち。

その内面思想等を破壊することに僕は意義を持っていて。こうやって、僕はブログを綴る。誰かから観たらあつかましい文章で、17の文章で、参考の文章ですが、呼んだというカルマがある時点で何かしら利害思考をもたらすわけです。そして、その(固定観念や無知などの;いやそれよりも大きい何かの)内面思想を破壊できていたならば、それはアバンギャルドなコミュニケーションやなぁと思うわけです。そんなものとっくに出来ているのかもしれない。どこにおいても。どっかのえらい教授の文が載っていて自分の現状のヒントになるんやったら、そりゃ読むだろうが、しかしそれはえらい教授のコミュニケーションであり「仕事」(+教育)である。知識を僕らに授けて頂いているだけ。それは普通なのである。それだけでは世の中は解決しない。

「破壊」から何が生まれるか?それは「創造」である。ヒンドゥー教の考え方を参考にしているが、破壊された思想を新たにかつ、より以前より完成的に創造(再構築)するのである。人々の思想を破壊する事は怖いことではない。ただ、その行為が利益をもたらさなくては僕が意義を持つことは無意味になる。誰も害なんか求めちゃいない。ただ、それは社会においても内面においても無常に浮き出てしまうもの。「益」と「害」は表裏一体なの。それは悲しきことでもあるが、人々を常に向上させる原動力でもある。

僕の考えるアバンギャルドとは、芸術においてたけるものでなくともいいと思っている。そもそも、そういう考えを再構築し、また創造して行くだけである。

それを意義のある表現にしていくだけです。
文での表現はここまで。
長文読んでくれて、ありがとうございます。

コメント

この記事へのコメント

http://www.guitaretab.com/
いつも返信してくれるので、お礼にこのサイト教えます。
知ってたらすいません。

ありがとうございます

このサイトは友達の家で見たことあったのですが、私は頻繁に使うことがなかったので、利用していませんでした。

んー、でもやっぱり参考になります。ビートルズにニルヴァーナ。タブが正しいかどうこうというより。むしろ、譜面にあったのをサイトに載せているのかもしれませんね。こういうのって、ネット環境さえあれば、最寄の本屋でお金を出して譜面買う必要なくなりますからね。それはこの様なサイトを探す能力と、情報を聞き出す能力が個人レベルで問われてきますよね。あと、自分の聴いている音楽のキャパシティにもよりますが。

こういうの見てて毎回著作権の事考えたんですね。真面目に調べたことはないので考えが曖昧ですが、外国の方が情報公開においては緩い気がしました。bjorkのサイトもそうだけど、歌詞やフォトなどコンテンツが揃っていて(コピーもできるし)。こういうのは、やはり使って行くべきだと改めて確信しています。

僕も使える情報はどんどん公開して行きたいと思っております。

曲には歌詞、メロディーに著作権があるけど、コードとリフには著作権が無いんですよね。
 だけど、楽譜買ってもらえないと、印税もらえないでしょうね。

なるほど、そういうことだったんですね。

カラオケは一曲入れるごとに、作詞者と作曲者に約1円の印税が掛かりますね(音楽の契約会社によっても違う)。あくまで、法律や企業的に制限されていますが、実際には鼻歌も歌うわ、コピーもするわで「見えないお金」は発生しているとは思います。しかし、そこまで厳密に計算したい利益主義なアーティストはあまりいないと思います。よくみるポップソングを除けば。
(参考資料(厳密的):http://chiba.cool.ne.jp/exprism/other/library/copyrights/copyrights.html)
(参考資料(対話的):http://homepage3.nifty.com/t-yoshimatsu/~data/I,composer/03.toCompose.html)

ネットに載っている楽譜も曖昧なやつもありますよね。譜面作成者が原曲を耳コピしたものだったり、販売されている譜面をネットに載せていたり。むしろ、販売されている譜面が原曲の耳コピだったりしますからね。譜面で一番いいのは、やはり原曲者の監修があることでしょう。アルバムの譜面はそういうことが多いですよね。それに楽器紹介等も載せてあるので、3千円くらいでしたら、別に僕は問題無く買おうと思います。ただ楽譜買うこと自体に意義は(あまり)無いと思いますが。その後のアウトプットに意義があると思います。
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